やさしい歌を歌いたい
高い雲、広いイシ、輝くソラ、そんなところにワタシは行きたい
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考古学の歴史2
日本に考古学という学問が入てきたのは、明治維新後でした。
明治10年(1988)、アメリカ人生物学者エドワード・シルベスター・モース(モールス)は6月17日、横浜に上陸した。
モースの目的は腕足類という海の生物を研究することだった。
1859年、イギリスの生物学者ダーウィンは「種の起源」という本を書き、進化論を提唱する。
モースは進化論の熱心な信望者だった。
モースは明治政府の新しい教育制度を整えるために文部省顧問となっているデビット・マレー博士を訪ねた。
マレー博士はモースと共に神田一ツ橋にあった東京大学に行き、文部大輔(文部大臣)田中不二麿、哲学者外山正一教授と会う。
横浜から東京へ向かう途中の大森駅を過ぎた汽車の中でモースは線路の左側の台地に白い貝殻の厚い層を見つける。貝塚であった。
モースはすでにアメリカで何度か貝塚を調査したことがあり、この遺跡についての知識があった。
【この頃の日本では、貝塚は伝説上の巨人が食べ捨てた貝のあとだ、と言われていた。】
モースは東京大学の教授に任命され、腕足類の研究を行う。
このときの助手が松村任三(植物学者)で、のちに東大教授となる。
当時、ドイツ人の地質学者エドモント・ナウマン、外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト、イギリスの地震学者ミルンなどが日本の各地を調査していた。
モースが気になっていた大森の貝塚を訪れることができたのが9月16日のことであった。
1回目の調査はモースと助手松村氏、松浦佐用彦と佐々木忠次郎の二人の学生だった。
貝の層は長さ89m、厚さ4m、多数の土器片と細工した骨片が見つかった。
2回目は前回のほかに外山正一教授、植物学者の谷田部良吉、マレー博士に加え、6人の作業員が加わり、徹底的な調査が行われた。
出土物を入れたカゴはいっぱいになり、貴重な遺物はモースが手提げ鞄に入れて持ち帰ったという。モースは11月1日に横浜港から一時帰国する。
その間、松浦、佐々木は調査を行っていた。
個人の私有地は地主と交渉し、2.2アールの発掘調査が行われた。
現在の東京都品川区大井6丁目21
12月までに調査は終了し、明治天皇が出土品をみたときの目録をつくったのは二人の学生だった。
モースは家族を連れて4月に再度来日。
松浦佐用彦は調査が終わって間もない7月5日、22歳の若さでこの世を去る。
脚気だったと言われている。
「大森貝塚」が東京大学から出版されたのは明治12年(1879)
矢田部教授による日本語版「大森介墟古物編(おおもりかいきょこぶつへん)」も出る。
この報告書は考古学の基本として今でも高い評価を受けており、大学講義のテキストとしてこの本を使っている教授もいる。
「縄文式土器」という言葉はモースが大森貝塚の土器につけた英語名に由来している。
モースは明治12年8月31日、大学側の希望を断り、帰国する。
その後、モースから直接指導を受けた人達は考古学以外の道を歩み、この業績を正しく受け継ぐものがいなかったという。
そして、大森貝塚の場所もあいまいになってしまった。
一つは、東京都品川区大井6丁目21、もう一つは、東京都大田区山王1丁目3−1で意見が分かれたが、私有地が品川区であったことが昭和51年いなってからだった。
明治10年(1988)、アメリカ人生物学者エドワード・シルベスター・モース(モールス)は6月17日、横浜に上陸した。
モースの目的は腕足類という海の生物を研究することだった。
1859年、イギリスの生物学者ダーウィンは「種の起源」という本を書き、進化論を提唱する。
モースは進化論の熱心な信望者だった。
モースは明治政府の新しい教育制度を整えるために文部省顧問となっているデビット・マレー博士を訪ねた。
マレー博士はモースと共に神田一ツ橋にあった東京大学に行き、文部大輔(文部大臣)田中不二麿、哲学者外山正一教授と会う。
横浜から東京へ向かう途中の大森駅を過ぎた汽車の中でモースは線路の左側の台地に白い貝殻の厚い層を見つける。貝塚であった。
モースはすでにアメリカで何度か貝塚を調査したことがあり、この遺跡についての知識があった。
【この頃の日本では、貝塚は伝説上の巨人が食べ捨てた貝のあとだ、と言われていた。】
モースは東京大学の教授に任命され、腕足類の研究を行う。
このときの助手が松村任三(植物学者)で、のちに東大教授となる。
当時、ドイツ人の地質学者エドモント・ナウマン、外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト、イギリスの地震学者ミルンなどが日本の各地を調査していた。
モースが気になっていた大森の貝塚を訪れることができたのが9月16日のことであった。
1回目の調査はモースと助手松村氏、松浦佐用彦と佐々木忠次郎の二人の学生だった。
貝の層は長さ89m、厚さ4m、多数の土器片と細工した骨片が見つかった。
2回目は前回のほかに外山正一教授、植物学者の谷田部良吉、マレー博士に加え、6人の作業員が加わり、徹底的な調査が行われた。
出土物を入れたカゴはいっぱいになり、貴重な遺物はモースが手提げ鞄に入れて持ち帰ったという。モースは11月1日に横浜港から一時帰国する。
その間、松浦、佐々木は調査を行っていた。
個人の私有地は地主と交渉し、2.2アールの発掘調査が行われた。
現在の東京都品川区大井6丁目21
12月までに調査は終了し、明治天皇が出土品をみたときの目録をつくったのは二人の学生だった。
モースは家族を連れて4月に再度来日。
松浦佐用彦は調査が終わって間もない7月5日、22歳の若さでこの世を去る。
脚気だったと言われている。
「大森貝塚」が東京大学から出版されたのは明治12年(1879)
矢田部教授による日本語版「大森介墟古物編(おおもりかいきょこぶつへん)」も出る。
この報告書は考古学の基本として今でも高い評価を受けており、大学講義のテキストとしてこの本を使っている教授もいる。
「縄文式土器」という言葉はモースが大森貝塚の土器につけた英語名に由来している。
モースは明治12年8月31日、大学側の希望を断り、帰国する。
その後、モースから直接指導を受けた人達は考古学以外の道を歩み、この業績を正しく受け継ぐものがいなかったという。
そして、大森貝塚の場所もあいまいになってしまった。
一つは、東京都品川区大井6丁目21、もう一つは、東京都大田区山王1丁目3−1で意見が分かれたが、私有地が品川区であったことが昭和51年いなってからだった。
考古学の歴史1 那須国造碑
最も古いとされている発掘調査は水戸光圀が行ったといわれています。
けれど、今とは全く時代が違うので、参考までに、
栃木県那須郡湯津上村には2つの侍塚古墳がある。
南を上侍塚、北を上侍塚というどちらも前方後円墳である。
上侍塚古墳は全長114メートル、下侍塚は全長84メートル。
江戸時代は上車塚、下車塚とも呼ばれていた。
この二つが学問的な発掘調査されたわが国最初の古墳だということで有名である。
およそ300年前、湯津上村では原っぱの茂みの中にひとつの石の柱があった。
柱の上には笠のような石が置かれていて、村人はこれを「笠石」と呼んでいた。
普段はこの笠を外しておき、日照のときには載せてお祈りをすると必ず雨が降ると信じられていて、うっかりここに馬をつなぐと馬は足を折ったり、血を吐いたりするといわれていた。
延宝4(1967)年4月、円順という旅の僧が湯津上村を通りかかり、石の柱のことを耳にすると、梅平村の庄屋の大金重貞を訪ね「あれはきっと身分の高い人の碑に違いない」と伝えた。
郷土の歴史を研究する学者でもある重貞は早速、湯津上村に行き、苔に覆われた石を丹念に調べると、文字が刻まれていることを発見した。
だが、文字は風化が激しく、はっきり読み取ることはできなかった。
何度か足を運び、ようやく碑文のおおよそを書き写した重貞は文中に「那須国造(なすのくにのみやつこ)」の文字が刻まれている碑の全文を、かねてから書き続けている「那須記」という書物にも記録した。
7年後の天和3年(1683)6月7日、おしのびで那須地方を巡回していた水戸藩主・徳川光圀が梅平村に立ち寄る。重貞は光圀の宿を訪ね、自分の「那須記」をさし出す。そこで初めて湯津上村の碑を知る。
4年後、貞享4年(1687)、再び梅平村を訪ねた光圀は重貞に「自分であの碑を再建したい」と語り、地元の了解を得ることや、その他の準備を整えることを頼む。
さらに4年後の元禄4年(1691)3月に碑の再建作業がはじまる。
この頃光圀はすでに隠居の身であったが、儒学者・佐々介三郎宗淳に命じて工事の指揮をとらせた。
碑を保護するお堂とその前に拝殿を作り、周りに松、桜、椿などを植えた。
この碑は笠石神社のご神体になっている。
笠石をのぞいた碑の高さは1.2メートル、幅は50センチで、碑の前面には152の文字が8行に分けて刻まれている。
今日も尚、読み方がわからない字があほど難しい漢字が使われており、なんとかして国造(くにのみやつこ)の名を明らかにしたいと考えた光圀は、近くにある2つの古墳がその墓に違いないと思い、発掘をすることにした。
発掘すれば国造の墓誌が見つかると思った光圀の計画を伝える佐々宗淳の手紙が重貞に届いたのは元禄5年の正月だった。
手紙には「発掘が終われば元に戻し、決して地元に迷惑をかけない」という言葉が添えられていた。
2月14日から約10日間に渡り、上侍塚古墳、下侍塚古墳の順で大金重貞が指揮をとり、発掘がはじまった。
重貞は自ら発掘の経過を記録し、寸法まで書き入れた古墳の見取り図や出土品のスケッチを残す。
それによると、上侍塚古墳では、深さ1.5メートルのところから鏡、管玉、石の腕輪、鉄製のやじりや兜の破片などが発掘されたが、墓誌はなかった。
下侍塚古墳でも同様に1.5メートルのあたりから鏡、鉄製の刀、土器の破片などが出土した。
ここでは古墳の底に達するまで9メートル掘り下げたが墓誌はなかった。
これらの出土品や古墳の形などから現代の考古学者は上侍塚は5世紀前半、下侍塚はそれより少しあとの時代であると考えられている。
光圀は発掘を中止し、細かい支持を出した。
出土品を絵図にしたものを見るので、自分のところに持ってくる必要はないということ。
出土品は松の板でつくった木箱に納め、釘付けしたあと、さらに松やにを塗り、厳重に封をし、その箱には光圀自身が筆を取って由来を書付けた。
それを近くの名主や庄屋の立会いのもとに古墳の地下深く埋め戻されたのは3月1日のことだった。
古墳には土が盛られ、松の木も植えられ、4月31日、全ての作業を終わり光圀のもとを訪れた重貞には金一封が贈られたという。
だがそれは世間に知られることもなかった・・・
結局、2つの古墳は国造の墓ではなかった。
「那須国造碑」は昭和27年、国宝に指定された。
那須国造碑
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,829,45.html
侍塚古墳
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,830,45.html
http://www.cbs.ne.jp/c2.yuzagami2.htm
けれど、今とは全く時代が違うので、参考までに、
栃木県那須郡湯津上村には2つの侍塚古墳がある。
南を上侍塚、北を上侍塚というどちらも前方後円墳である。
上侍塚古墳は全長114メートル、下侍塚は全長84メートル。
江戸時代は上車塚、下車塚とも呼ばれていた。
この二つが学問的な発掘調査されたわが国最初の古墳だということで有名である。
およそ300年前、湯津上村では原っぱの茂みの中にひとつの石の柱があった。
柱の上には笠のような石が置かれていて、村人はこれを「笠石」と呼んでいた。
普段はこの笠を外しておき、日照のときには載せてお祈りをすると必ず雨が降ると信じられていて、うっかりここに馬をつなぐと馬は足を折ったり、血を吐いたりするといわれていた。
延宝4(1967)年4月、円順という旅の僧が湯津上村を通りかかり、石の柱のことを耳にすると、梅平村の庄屋の大金重貞を訪ね「あれはきっと身分の高い人の碑に違いない」と伝えた。
郷土の歴史を研究する学者でもある重貞は早速、湯津上村に行き、苔に覆われた石を丹念に調べると、文字が刻まれていることを発見した。
だが、文字は風化が激しく、はっきり読み取ることはできなかった。
何度か足を運び、ようやく碑文のおおよそを書き写した重貞は文中に「那須国造(なすのくにのみやつこ)」の文字が刻まれている碑の全文を、かねてから書き続けている「那須記」という書物にも記録した。
7年後の天和3年(1683)6月7日、おしのびで那須地方を巡回していた水戸藩主・徳川光圀が梅平村に立ち寄る。重貞は光圀の宿を訪ね、自分の「那須記」をさし出す。そこで初めて湯津上村の碑を知る。
4年後、貞享4年(1687)、再び梅平村を訪ねた光圀は重貞に「自分であの碑を再建したい」と語り、地元の了解を得ることや、その他の準備を整えることを頼む。
さらに4年後の元禄4年(1691)3月に碑の再建作業がはじまる。
この頃光圀はすでに隠居の身であったが、儒学者・佐々介三郎宗淳に命じて工事の指揮をとらせた。
碑を保護するお堂とその前に拝殿を作り、周りに松、桜、椿などを植えた。
この碑は笠石神社のご神体になっている。
笠石をのぞいた碑の高さは1.2メートル、幅は50センチで、碑の前面には152の文字が8行に分けて刻まれている。
今日も尚、読み方がわからない字があほど難しい漢字が使われており、なんとかして国造(くにのみやつこ)の名を明らかにしたいと考えた光圀は、近くにある2つの古墳がその墓に違いないと思い、発掘をすることにした。
発掘すれば国造の墓誌が見つかると思った光圀の計画を伝える佐々宗淳の手紙が重貞に届いたのは元禄5年の正月だった。
手紙には「発掘が終われば元に戻し、決して地元に迷惑をかけない」という言葉が添えられていた。
2月14日から約10日間に渡り、上侍塚古墳、下侍塚古墳の順で大金重貞が指揮をとり、発掘がはじまった。
重貞は自ら発掘の経過を記録し、寸法まで書き入れた古墳の見取り図や出土品のスケッチを残す。
それによると、上侍塚古墳では、深さ1.5メートルのところから鏡、管玉、石の腕輪、鉄製のやじりや兜の破片などが発掘されたが、墓誌はなかった。
下侍塚古墳でも同様に1.5メートルのあたりから鏡、鉄製の刀、土器の破片などが出土した。
ここでは古墳の底に達するまで9メートル掘り下げたが墓誌はなかった。
これらの出土品や古墳の形などから現代の考古学者は上侍塚は5世紀前半、下侍塚はそれより少しあとの時代であると考えられている。
光圀は発掘を中止し、細かい支持を出した。
出土品を絵図にしたものを見るので、自分のところに持ってくる必要はないということ。
出土品は松の板でつくった木箱に納め、釘付けしたあと、さらに松やにを塗り、厳重に封をし、その箱には光圀自身が筆を取って由来を書付けた。
それを近くの名主や庄屋の立会いのもとに古墳の地下深く埋め戻されたのは3月1日のことだった。
古墳には土が盛られ、松の木も植えられ、4月31日、全ての作業を終わり光圀のもとを訪れた重貞には金一封が贈られたという。
だがそれは世間に知られることもなかった・・・
結局、2つの古墳は国造の墓ではなかった。
「那須国造碑」は昭和27年、国宝に指定された。
那須国造碑
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,829,45.html
侍塚古墳
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,830,45.html
http://www.cbs.ne.jp/c2.yuzagami2.htm





