やさしい歌を歌いたい
高い雲、広いイシ、輝くソラ、そんなところにワタシは行きたい
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考古学の歴史2
日本に考古学という学問が入てきたのは、明治維新後でした。
明治10年(1988)、アメリカ人生物学者エドワード・シルベスター・モース(モールス)は6月17日、横浜に上陸した。
モースの目的は腕足類という海の生物を研究することだった。
1859年、イギリスの生物学者ダーウィンは「種の起源」という本を書き、進化論を提唱する。
モースは進化論の熱心な信望者だった。
モースは明治政府の新しい教育制度を整えるために文部省顧問となっているデビット・マレー博士を訪ねた。
マレー博士はモースと共に神田一ツ橋にあった東京大学に行き、文部大輔(文部大臣)田中不二麿、哲学者外山正一教授と会う。
横浜から東京へ向かう途中の大森駅を過ぎた汽車の中でモースは線路の左側の台地に白い貝殻の厚い層を見つける。貝塚であった。
モースはすでにアメリカで何度か貝塚を調査したことがあり、この遺跡についての知識があった。
【この頃の日本では、貝塚は伝説上の巨人が食べ捨てた貝のあとだ、と言われていた。】
モースは東京大学の教授に任命され、腕足類の研究を行う。
このときの助手が松村任三(植物学者)で、のちに東大教授となる。
当時、ドイツ人の地質学者エドモント・ナウマン、外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト、イギリスの地震学者ミルンなどが日本の各地を調査していた。
モースが気になっていた大森の貝塚を訪れることができたのが9月16日のことであった。
1回目の調査はモースと助手松村氏、松浦佐用彦と佐々木忠次郎の二人の学生だった。
貝の層は長さ89m、厚さ4m、多数の土器片と細工した骨片が見つかった。
2回目は前回のほかに外山正一教授、植物学者の谷田部良吉、マレー博士に加え、6人の作業員が加わり、徹底的な調査が行われた。
出土物を入れたカゴはいっぱいになり、貴重な遺物はモースが手提げ鞄に入れて持ち帰ったという。モースは11月1日に横浜港から一時帰国する。
その間、松浦、佐々木は調査を行っていた。
個人の私有地は地主と交渉し、2.2アールの発掘調査が行われた。
現在の東京都品川区大井6丁目21
12月までに調査は終了し、明治天皇が出土品をみたときの目録をつくったのは二人の学生だった。
モースは家族を連れて4月に再度来日。
松浦佐用彦は調査が終わって間もない7月5日、22歳の若さでこの世を去る。
脚気だったと言われている。
「大森貝塚」が東京大学から出版されたのは明治12年(1879)
矢田部教授による日本語版「大森介墟古物編(おおもりかいきょこぶつへん)」も出る。
この報告書は考古学の基本として今でも高い評価を受けており、大学講義のテキストとしてこの本を使っている教授もいる。
「縄文式土器」という言葉はモースが大森貝塚の土器につけた英語名に由来している。
モースは明治12年8月31日、大学側の希望を断り、帰国する。
その後、モースから直接指導を受けた人達は考古学以外の道を歩み、この業績を正しく受け継ぐものがいなかったという。
そして、大森貝塚の場所もあいまいになってしまった。
一つは、東京都品川区大井6丁目21、もう一つは、東京都大田区山王1丁目3−1で意見が分かれたが、私有地が品川区であったことが昭和51年いなってからだった。
明治10年(1988)、アメリカ人生物学者エドワード・シルベスター・モース(モールス)は6月17日、横浜に上陸した。
モースの目的は腕足類という海の生物を研究することだった。
1859年、イギリスの生物学者ダーウィンは「種の起源」という本を書き、進化論を提唱する。
モースは進化論の熱心な信望者だった。
モースは明治政府の新しい教育制度を整えるために文部省顧問となっているデビット・マレー博士を訪ねた。
マレー博士はモースと共に神田一ツ橋にあった東京大学に行き、文部大輔(文部大臣)田中不二麿、哲学者外山正一教授と会う。
横浜から東京へ向かう途中の大森駅を過ぎた汽車の中でモースは線路の左側の台地に白い貝殻の厚い層を見つける。貝塚であった。
モースはすでにアメリカで何度か貝塚を調査したことがあり、この遺跡についての知識があった。
【この頃の日本では、貝塚は伝説上の巨人が食べ捨てた貝のあとだ、と言われていた。】
モースは東京大学の教授に任命され、腕足類の研究を行う。
このときの助手が松村任三(植物学者)で、のちに東大教授となる。
当時、ドイツ人の地質学者エドモント・ナウマン、外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト、イギリスの地震学者ミルンなどが日本の各地を調査していた。
モースが気になっていた大森の貝塚を訪れることができたのが9月16日のことであった。
1回目の調査はモースと助手松村氏、松浦佐用彦と佐々木忠次郎の二人の学生だった。
貝の層は長さ89m、厚さ4m、多数の土器片と細工した骨片が見つかった。
2回目は前回のほかに外山正一教授、植物学者の谷田部良吉、マレー博士に加え、6人の作業員が加わり、徹底的な調査が行われた。
出土物を入れたカゴはいっぱいになり、貴重な遺物はモースが手提げ鞄に入れて持ち帰ったという。モースは11月1日に横浜港から一時帰国する。
その間、松浦、佐々木は調査を行っていた。
個人の私有地は地主と交渉し、2.2アールの発掘調査が行われた。
現在の東京都品川区大井6丁目21
12月までに調査は終了し、明治天皇が出土品をみたときの目録をつくったのは二人の学生だった。
モースは家族を連れて4月に再度来日。
松浦佐用彦は調査が終わって間もない7月5日、22歳の若さでこの世を去る。
脚気だったと言われている。
「大森貝塚」が東京大学から出版されたのは明治12年(1879)
矢田部教授による日本語版「大森介墟古物編(おおもりかいきょこぶつへん)」も出る。
この報告書は考古学の基本として今でも高い評価を受けており、大学講義のテキストとしてこの本を使っている教授もいる。
「縄文式土器」という言葉はモースが大森貝塚の土器につけた英語名に由来している。
モースは明治12年8月31日、大学側の希望を断り、帰国する。
その後、モースから直接指導を受けた人達は考古学以外の道を歩み、この業績を正しく受け継ぐものがいなかったという。
そして、大森貝塚の場所もあいまいになってしまった。
一つは、東京都品川区大井6丁目21、もう一つは、東京都大田区山王1丁目3−1で意見が分かれたが、私有地が品川区であったことが昭和51年いなってからだった。
考古学の歴史1 那須国造碑
最も古いとされている発掘調査は水戸光圀が行ったといわれています。
けれど、今とは全く時代が違うので、参考までに、
栃木県那須郡湯津上村には2つの侍塚古墳がある。
南を上侍塚、北を上侍塚というどちらも前方後円墳である。
上侍塚古墳は全長114メートル、下侍塚は全長84メートル。
江戸時代は上車塚、下車塚とも呼ばれていた。
この二つが学問的な発掘調査されたわが国最初の古墳だということで有名である。
およそ300年前、湯津上村では原っぱの茂みの中にひとつの石の柱があった。
柱の上には笠のような石が置かれていて、村人はこれを「笠石」と呼んでいた。
普段はこの笠を外しておき、日照のときには載せてお祈りをすると必ず雨が降ると信じられていて、うっかりここに馬をつなぐと馬は足を折ったり、血を吐いたりするといわれていた。
延宝4(1967)年4月、円順という旅の僧が湯津上村を通りかかり、石の柱のことを耳にすると、梅平村の庄屋の大金重貞を訪ね「あれはきっと身分の高い人の碑に違いない」と伝えた。
郷土の歴史を研究する学者でもある重貞は早速、湯津上村に行き、苔に覆われた石を丹念に調べると、文字が刻まれていることを発見した。
だが、文字は風化が激しく、はっきり読み取ることはできなかった。
何度か足を運び、ようやく碑文のおおよそを書き写した重貞は文中に「那須国造(なすのくにのみやつこ)」の文字が刻まれている碑の全文を、かねてから書き続けている「那須記」という書物にも記録した。
7年後の天和3年(1683)6月7日、おしのびで那須地方を巡回していた水戸藩主・徳川光圀が梅平村に立ち寄る。重貞は光圀の宿を訪ね、自分の「那須記」をさし出す。そこで初めて湯津上村の碑を知る。
4年後、貞享4年(1687)、再び梅平村を訪ねた光圀は重貞に「自分であの碑を再建したい」と語り、地元の了解を得ることや、その他の準備を整えることを頼む。
さらに4年後の元禄4年(1691)3月に碑の再建作業がはじまる。
この頃光圀はすでに隠居の身であったが、儒学者・佐々介三郎宗淳に命じて工事の指揮をとらせた。
碑を保護するお堂とその前に拝殿を作り、周りに松、桜、椿などを植えた。
この碑は笠石神社のご神体になっている。
笠石をのぞいた碑の高さは1.2メートル、幅は50センチで、碑の前面には152の文字が8行に分けて刻まれている。
今日も尚、読み方がわからない字があほど難しい漢字が使われており、なんとかして国造(くにのみやつこ)の名を明らかにしたいと考えた光圀は、近くにある2つの古墳がその墓に違いないと思い、発掘をすることにした。
発掘すれば国造の墓誌が見つかると思った光圀の計画を伝える佐々宗淳の手紙が重貞に届いたのは元禄5年の正月だった。
手紙には「発掘が終われば元に戻し、決して地元に迷惑をかけない」という言葉が添えられていた。
2月14日から約10日間に渡り、上侍塚古墳、下侍塚古墳の順で大金重貞が指揮をとり、発掘がはじまった。
重貞は自ら発掘の経過を記録し、寸法まで書き入れた古墳の見取り図や出土品のスケッチを残す。
それによると、上侍塚古墳では、深さ1.5メートルのところから鏡、管玉、石の腕輪、鉄製のやじりや兜の破片などが発掘されたが、墓誌はなかった。
下侍塚古墳でも同様に1.5メートルのあたりから鏡、鉄製の刀、土器の破片などが出土した。
ここでは古墳の底に達するまで9メートル掘り下げたが墓誌はなかった。
これらの出土品や古墳の形などから現代の考古学者は上侍塚は5世紀前半、下侍塚はそれより少しあとの時代であると考えられている。
光圀は発掘を中止し、細かい支持を出した。
出土品を絵図にしたものを見るので、自分のところに持ってくる必要はないということ。
出土品は松の板でつくった木箱に納め、釘付けしたあと、さらに松やにを塗り、厳重に封をし、その箱には光圀自身が筆を取って由来を書付けた。
それを近くの名主や庄屋の立会いのもとに古墳の地下深く埋め戻されたのは3月1日のことだった。
古墳には土が盛られ、松の木も植えられ、4月31日、全ての作業を終わり光圀のもとを訪れた重貞には金一封が贈られたという。
だがそれは世間に知られることもなかった・・・
結局、2つの古墳は国造の墓ではなかった。
「那須国造碑」は昭和27年、国宝に指定された。
那須国造碑
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,829,45.html
侍塚古墳
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,830,45.html
http://www.cbs.ne.jp/c2.yuzagami2.htm
けれど、今とは全く時代が違うので、参考までに、
栃木県那須郡湯津上村には2つの侍塚古墳がある。
南を上侍塚、北を上侍塚というどちらも前方後円墳である。
上侍塚古墳は全長114メートル、下侍塚は全長84メートル。
江戸時代は上車塚、下車塚とも呼ばれていた。
この二つが学問的な発掘調査されたわが国最初の古墳だということで有名である。
およそ300年前、湯津上村では原っぱの茂みの中にひとつの石の柱があった。
柱の上には笠のような石が置かれていて、村人はこれを「笠石」と呼んでいた。
普段はこの笠を外しておき、日照のときには載せてお祈りをすると必ず雨が降ると信じられていて、うっかりここに馬をつなぐと馬は足を折ったり、血を吐いたりするといわれていた。
延宝4(1967)年4月、円順という旅の僧が湯津上村を通りかかり、石の柱のことを耳にすると、梅平村の庄屋の大金重貞を訪ね「あれはきっと身分の高い人の碑に違いない」と伝えた。
郷土の歴史を研究する学者でもある重貞は早速、湯津上村に行き、苔に覆われた石を丹念に調べると、文字が刻まれていることを発見した。
だが、文字は風化が激しく、はっきり読み取ることはできなかった。
何度か足を運び、ようやく碑文のおおよそを書き写した重貞は文中に「那須国造(なすのくにのみやつこ)」の文字が刻まれている碑の全文を、かねてから書き続けている「那須記」という書物にも記録した。
7年後の天和3年(1683)6月7日、おしのびで那須地方を巡回していた水戸藩主・徳川光圀が梅平村に立ち寄る。重貞は光圀の宿を訪ね、自分の「那須記」をさし出す。そこで初めて湯津上村の碑を知る。
4年後、貞享4年(1687)、再び梅平村を訪ねた光圀は重貞に「自分であの碑を再建したい」と語り、地元の了解を得ることや、その他の準備を整えることを頼む。
さらに4年後の元禄4年(1691)3月に碑の再建作業がはじまる。
この頃光圀はすでに隠居の身であったが、儒学者・佐々介三郎宗淳に命じて工事の指揮をとらせた。
碑を保護するお堂とその前に拝殿を作り、周りに松、桜、椿などを植えた。
この碑は笠石神社のご神体になっている。
笠石をのぞいた碑の高さは1.2メートル、幅は50センチで、碑の前面には152の文字が8行に分けて刻まれている。
今日も尚、読み方がわからない字があほど難しい漢字が使われており、なんとかして国造(くにのみやつこ)の名を明らかにしたいと考えた光圀は、近くにある2つの古墳がその墓に違いないと思い、発掘をすることにした。
発掘すれば国造の墓誌が見つかると思った光圀の計画を伝える佐々宗淳の手紙が重貞に届いたのは元禄5年の正月だった。
手紙には「発掘が終われば元に戻し、決して地元に迷惑をかけない」という言葉が添えられていた。
2月14日から約10日間に渡り、上侍塚古墳、下侍塚古墳の順で大金重貞が指揮をとり、発掘がはじまった。
重貞は自ら発掘の経過を記録し、寸法まで書き入れた古墳の見取り図や出土品のスケッチを残す。
それによると、上侍塚古墳では、深さ1.5メートルのところから鏡、管玉、石の腕輪、鉄製のやじりや兜の破片などが発掘されたが、墓誌はなかった。
下侍塚古墳でも同様に1.5メートルのあたりから鏡、鉄製の刀、土器の破片などが出土した。
ここでは古墳の底に達するまで9メートル掘り下げたが墓誌はなかった。
これらの出土品や古墳の形などから現代の考古学者は上侍塚は5世紀前半、下侍塚はそれより少しあとの時代であると考えられている。
光圀は発掘を中止し、細かい支持を出した。
出土品を絵図にしたものを見るので、自分のところに持ってくる必要はないということ。
出土品は松の板でつくった木箱に納め、釘付けしたあと、さらに松やにを塗り、厳重に封をし、その箱には光圀自身が筆を取って由来を書付けた。
それを近くの名主や庄屋の立会いのもとに古墳の地下深く埋め戻されたのは3月1日のことだった。
古墳には土が盛られ、松の木も植えられ、4月31日、全ての作業を終わり光圀のもとを訪れた重貞には金一封が贈られたという。
だがそれは世間に知られることもなかった・・・
結局、2つの古墳は国造の墓ではなかった。
「那須国造碑」は昭和27年、国宝に指定された。
那須国造碑
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,829,45.html
侍塚古墳
http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/11,830,45.html
http://www.cbs.ne.jp/c2.yuzagami2.htm
京都はなぜ大規模空襲から免れたか
京都、奈良が空襲で焼かれなかったのは、アメリカがその文化価値を分かっていたから。
という噂を聞いたことがある人は多いだろう。
この話は一体どこから出てきたものなのか?
吉田守男氏「古都の京都はなぜ空襲を免れたか」から
<ウォーナー恩人説の噂>
1945年11月11日 朝日新聞から
京都と奈良はなぜ爆撃されなかったか、美術と歴史を尊重するアメリカの意思が救ったのである。
開戦とともにアメリカにできた「戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委員会」はアメリカ大審院判事ロバーツ氏を委員長とする会(ロバーツ委員会)で、その使命は東洋および欧州の諸戦場における貴重な美術や史跡を戦火から救わんとするもので、日本の諸都市に空爆が開始される時に、京都、奈良を作戦目標から除外しようとハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長の職にあるラングドン・ウォーナー氏が献身的な努力を尽くしたのである。
ウォーナー氏と同じく著名な美術研究家で現在マックァーサー司令部の文教部長たるヘンダーソン中佐が日本に進駐してはじめてウォーナー氏の並々ならぬ努力の秘話が伝えられたのである。ウォーナー氏の熱意は遂に京都、奈良を救うことに成功したのだという。
この記事には、ウォーナー博士とは三十年来の親友であるという美術評論家、矢代幸雄の談話が載せられている。
親友の美談を朝日新聞に持ち込んだのは矢代幸雄で、米政府の政策に敬意を表しているのがわかるという。
この記事が発表されてから新聞雑誌はきそってこの美談を追いかけた。
ウォーナーは戦後二度来日し、国賓なみの待遇を受けた。
ウォーナー氏は戦前、二度来日し、岡倉天心の下で横山大観、下村観山、菱田春草らと過ごし、日本美術を学び、1923年からハーバード大学で教鞭をとる。ルーズベルト大統領の姪が妻。
1955年6月 9日、ウォーナー氏、死去。
6月11日 奈良県議会は弔文決議を採択。
6月12日 「朝日新聞」や「毎日新聞」などは一斉に哀悼の意を記す。
6月12日「朝日新聞の天声人語」から
"ウォーナー博士の尽力により爆撃から免れた奈良、京都のどこかへウォーナー翁の記念碑を建てたいものである"
6月14日 東京版「朝日新聞」の「声」の欄に載った一会社員の投書から
"「天声人語」氏の言うようにウォーナー翁の記念碑を建てることに賛成する。私は終戦記念行事と並行して、遺徳顕彰会の呼びかけを、奈良、京都ならびに美術、宗教両界に要請する"
6月29日 京都市長はハーバード大学教授セルゲ・エリセフ(ロシア人日本学者でウォーナーとともに京都を戦火から救うために尽力したと伝えられている)に感謝状を送る。
感謝状には次のように記されていた。 "故ウォーナー博士と共に米国の有識者を動員して京都を守ってくださった貴下のことをロックフェラー氏から聞き、 京都市民を代表してその功績に深じんなる感謝の意を表明するとともに、京都の故文化財を全市民あげて擁護し教授の御志に副うよう努力します"
7月9日 奈良学芸大学(現・奈良教育大学)では平岡東大寺館長が導師となり、東大寺・薬師寺からも僧侶が出席し、県知事、市長ら200名で追悼式を行う。
7月9日 鎌倉の円覚寺では多数の著名人が出席し、追悼法要が行われた。
この発起人は吉田茂(前首相)、岡部長景(元文相、国立近代美術館館長)、高橋誠一郎(元文相)、畠山一清(元貴族院議員)、細川護立(文部省文化財保護委員)、横山大観、矢代幸雄など。
(戦後ウォーナーが来日をしたとき、夫妻で吉田首相から箱根の別荘に招かれている、知己の中)
日本政府はウォーナー氏に勲二等瑞宝章を授与している。
ウォーナー氏の記念碑は6つある
1963年6月9日 法隆寺 文化財保護委員の細川護立(元首相細川護煕の祖父)、梅原末治京大教授、黒田源治奈良国立博物館館長らが建立の中心となる。
1959年 桜井公園(のちに安倍文殊院に移転) 法隆寺と同じものを、参拝して感激した日雇い労働者の中川伊太郎氏が建立のため、汗水をたらして働いて得た10万円により完成。公園の基礎工事に仲間30人が奉仕をした。
1970年 霊山歴史館(京都市) 岡倉天心と同門の平櫛田中が制作したウォーナーの胸像に碑文を添えたもの。
財団法人・日本文化財団が建立。この時の名誉会長は松下幸之助、理事長は京都新聞社常務取締役白石英司。
幕末の志士の資料を展示するところになぜあるのか、いきさつは館員も知らないという。
1970年 茨城大学五浦美術研究所 ここは戦前、ウォーナーが滞在していた場所だという。
建立者はウォーナー博士功績顕彰会。日立製作所からの提案で、茨城大学や県内各方面からの寄付によるものだという。細川護立や矢代幸雄が碑文に関わる。
1981年 福島県勝常寺の境内 会津史談会会長宮崎長八らの発起。白虎隊記念館理事長早川喜代治が中心となる。なぜか、土井晩翠の碑と表裏の関係となる碑。
1987年 JR鎌倉駅前 鎌倉市内の政財界人、文化人、市民らの寄付による。
「文化は戦争に優先する」という文も刻まれているという。(人間の命は?と思うが・・・)
1957年の「芸術新潮」、「文化財は日本爆撃からいかにして護られたか」では以下のように書かた。
(1)「戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委員会」、いわゆるロバーツ委員会の目的は、戦争により災害を受けてはならない貴重な文化財を保護することにあった。
(2)ロバーツ委員会の委員であったウォーナー博士は日本の文化財リスト(「ウォーナーリスト」)を政府に提出し、歴史的古都を空爆から除外することに成功した。
一方、ウォーナーは恩人説を一貫否定している。
「それはただ噂だけであって、政府が(マッカーサー)司令官と密接な協議をして行った政策である」(京都新聞)
<吉田守男氏の調査でわかったロバーツ委員会の真実>
アメリカ政府に提出した活動の報告書からこの委員会の目的は、以下のとおり。
1、戦争中の連合国軍占領地域での文化財の保護
2、戦闘終了後は略奪された文化財の返還と弁償が目的となる
3、返還を実現するために、略奪された文化財のリストを作る
また、物品での弁償を実現するために、等価値の文化財リストをつくる
そして、そのほとんどがヨーロッパ中心のリストだった。
日本の文化財リスト「ウォーナーリスト」も存在しており、京都、奈良に限らず、全国の文化財が記載されている。
そして、そのリストの目的は主に【略奪された文化財の返還】にあり、決して戦争政策を超えてまで【文化財を保護するというものではなかった】
「ウォーナーリスト」は戦後、占領軍兵士たちが日本を観光して回るガイドブックとして重宝したというのである。
この著者の調査結果は新聞、雑誌で取り上げられている。
<原爆目標都市>
1943年(昭和18)年5月5日米軍事政策委員会にて、原爆使用に関し、トラック島の港に集結する日本艦隊へ投下するのが最もよいという意見が多かったという。
著者が指摘する注目点は、次の部分。
(1)ヨーロッパ戦線の勝敗が決する前に対日使用を決定している
(2)ドイツより日本のほうが原爆の知識に乏しいという理由が選ばれた理由である
(3)本土ではない
1945年4月から1回目、2回目、3回目・・・と目標選定委員会が開かれる。
目標都市はその都度、条件をそろえて絞り込まれる。
京都、広島、横浜、小倉、新潟
基準は
1、直径3マイルを超える大都市であること
2、爆風による効果的な破壊が可能であること
3、8月まで攻撃されないままの状態であること
人類史上最初の爆弾投下にあたり、できるだけ正確にその威力を測定するため無傷の大都市という条件が必要とされた。
空襲による被害があると、それが原爆の効果なのか、通常の空襲なのかという区別がつかないという理由だった。
さまざまな条件が重なる中、実は、京都こそ最も理想的な目標とされていた。
次の目標である広島は、市街地の広さでそれほど理想的とはいえなかったという。
また、長崎は7月24日に急遽追加されたもので、地形条件が適切ではなかったために猛烈な反対にあった。
そして、照準点はが軍需工場の位置は無視し、人口密集地の中心を狙うことが定められた。
京都の照準点は梅小路機関車庫。
<投下目標の予約>
アメリカの戦略爆撃調査団の報告書は次のように記している。
"原爆の攻撃目標はワシントンからの秘密指令によって他のいかなる形式の攻撃からも一切除外されていて、原爆の使用に対する効果だけを得られるほとんど無傷の地域であった”
つまり、原爆投下目標に選ばれた都市には、ワシントンから爆撃禁止命令が出されていた"
そのため、最初から最後まで目標都市だった京都は大規模空襲が行われなかったのだ。
横浜は投下目標から外れたのちに大規模空襲を受けている。これは本文に載っている資料を見ると、時期がピタリと一致する。
<謎の「8888」>
米軍資料「攻撃データ」にB29の出撃データにある所属部隊「8888」が300回ほど出てくる。
「8888」は伏字で、正体が判明しているものがある。
300回のうちの50回は第509混成群団、つまり、原爆投下専門部隊で、原爆投下練習を50回にわたり実施した。
広島、長崎の原爆投下に出撃したB29もこの「8888」と表示されている。
・・・著者が指摘するこの部分は面白い・・・「8×4」は匂い隠しで、「8888」は所属部隊隠し。
<では、スチムソン恩人説は?>
原爆に関して事前警告をすべきかどうかは意見が分かれたが、この警告案を葬った中心人物の一人がヘンリー・スチムソン陸軍長官だった。
原爆開発と投下の計画はスチムソンの下で行われてきた。
スチムソンはトルーマン大統領を説得し、京都を原爆の対象から外させた人物である。
スチムソンは何故、京都を外したのか?
(1)「京都を投下目標にするのは反対だ。決して承認するつもりはない」(スチムソンのレスリー・グローブズ陸軍少将に対する発言)
(2)「もし(京都)の除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう」(スチムソンの日記/トルーマン大統領との議論において)
(3)「トルーマン大統領の支持を得て、私は目標リストの中から京都市を抹消した。京都は軍事的には重要な重要な目標値ではあったが、日本の旧都で、芸術と文化の聖地であった。われわれはこの町を救うべきことを決めた。わたしは広島と長崎を含む他の4つの目標地を承認した」(スチムソンの回想手記「原子爆弾使用の決断」/1947年2月発表)
(3)の発言では、スチムソンが京都文化の重要性を認識したことが京都が原爆投下から免れることとなったように思える。
スチムソンはトルーマン大統領宛の手紙に次のように書く。
(4)「私が書いた小論(「原子爆弾使用の決断」)は、次の世代を教育する責任をもつあのやかまし屋たち、すなわち教育者と歴史家たちが抱いている懸念に答えることを意図して用意されたものであります」(1947年1月7日付)
(3)の発言が(4)の発言につながるものとみれば、(2)の発言こそが真実の発言と捉えられる・・・
著者の考えによると、
スチムソンが京都を原爆投下対象から外した本当の理由は、あくまでもアメリカの戦後日本支配と対ソ連を考えた政策であり、日本の文化都市を守るためではなかったという。
また、アメリカの軍部は京都の原爆投下にこだわっていたので、最後まで京都は通常の空襲被害にあわなかった。
そして、3個目の原子爆弾が用意されていた可能性も含めれば、その目標地は京都であっただろうという。
<誰がウォーナーが恩人と言ったのか?>
文部省の国宝保存課に所属し、後に東京国立文化財研究所所長となる田中一松は敗戦直後の9月のある日、GHQから呼び出された。
相手はアメリカ人ヘンダーソン(少佐、後に中佐)だった。ヘンダーソンは10年前に円山応挙や渡辺崋山を研究するために来日したときに田中と知り合っている。
その中でウォーナーの恩人説が出たという噂を聞き、矢代幸雄が確認のため、ヘンダーソンと会っている。
このとき、矢代はウォーナーの美談が間違いのない事実だと確認する。
【それは、GHQのお墨付きだった】
H・ヘンダーソンはウォーナーの教え子で、GHQの民間情報教育局(CIE)に着任した日本学者。
戦時中は「ラッカサン・ニュース」の作成をし、天皇の「人間宣言」に関わる。
CIEには教育、宗教、新聞、放送、映画などがあった。
NHKの第一放送は1945年、「真相はこうだ」という番組を放送。
これはCIEが直接製作した番組で、内容は、太平洋戦争で日本軍が行った虐殺行為に話の重点がおかれていたらしい。
何の気なしに観ているアメリカ映画の洪水もGHQが占領政策として始めたものだった。
日本人はあっという間に「鬼畜米英」から「親米」へと変わっていった。
結局、ウォーナー恩人説はGHQの作った日本占領政策だったということ。
2002年、NHKは70年代に放送した番組を再放送している。
「ウォーナー博士が作ったリストによりアジア太平洋戦争中の戦火から免れた日本の文化財が、今、日本人のせいで危機に瀕している」という内容だった。
ウォーナーの話は捏造だったということを各種新聞やNHKも大きく報道しているのにも関わらず!である。
これは今も尚、GHQの占領政策が続いているという一端ではないのかとわたしは思います。
補足として、
<異常なほど多かった浜松の空襲>
浜松は1940年当時、人口17万人の中都市であった。
人口32万人の福岡が1526トン、30万人の川崎が1519トンの爆弾投下量。
また、浜松と同じ人口17万人の岐阜は爆弾投下量が838トンだが、浜松は3036トンと、異常に爆弾の投下量が多かった。
カーティス・ルメイの著作から
"この浜松ほどあわれな都市はほかにない。われわれのB29は(日本の攻撃による)被爆やその他の事情で爆弾を投棄する場合、この浜松上空で搭載爆弾を処分するように命ぜられていたのだ。このため、毎日のべつまくなしに爆雨を降らされ(た)"
関東地方を攻撃するために来襲するB29は御前崎から本土に侵入し、富士山を横に見ながら東上する場合が多く、浜松あたりは出入り口に極めて近い位置にあたった。
という噂を聞いたことがある人は多いだろう。
この話は一体どこから出てきたものなのか?
吉田守男氏「古都の京都はなぜ空襲を免れたか」から
<ウォーナー恩人説の噂>
1945年11月11日 朝日新聞から
京都と奈良はなぜ爆撃されなかったか、美術と歴史を尊重するアメリカの意思が救ったのである。
開戦とともにアメリカにできた「戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委員会」はアメリカ大審院判事ロバーツ氏を委員長とする会(ロバーツ委員会)で、その使命は東洋および欧州の諸戦場における貴重な美術や史跡を戦火から救わんとするもので、日本の諸都市に空爆が開始される時に、京都、奈良を作戦目標から除外しようとハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長の職にあるラングドン・ウォーナー氏が献身的な努力を尽くしたのである。
ウォーナー氏と同じく著名な美術研究家で現在マックァーサー司令部の文教部長たるヘンダーソン中佐が日本に進駐してはじめてウォーナー氏の並々ならぬ努力の秘話が伝えられたのである。ウォーナー氏の熱意は遂に京都、奈良を救うことに成功したのだという。
この記事には、ウォーナー博士とは三十年来の親友であるという美術評論家、矢代幸雄の談話が載せられている。
親友の美談を朝日新聞に持ち込んだのは矢代幸雄で、米政府の政策に敬意を表しているのがわかるという。
この記事が発表されてから新聞雑誌はきそってこの美談を追いかけた。
ウォーナーは戦後二度来日し、国賓なみの待遇を受けた。
ウォーナー氏は戦前、二度来日し、岡倉天心の下で横山大観、下村観山、菱田春草らと過ごし、日本美術を学び、1923年からハーバード大学で教鞭をとる。ルーズベルト大統領の姪が妻。
1955年6月 9日、ウォーナー氏、死去。
6月11日 奈良県議会は弔文決議を採択。
6月12日 「朝日新聞」や「毎日新聞」などは一斉に哀悼の意を記す。
6月12日「朝日新聞の天声人語」から
"ウォーナー博士の尽力により爆撃から免れた奈良、京都のどこかへウォーナー翁の記念碑を建てたいものである"
6月14日 東京版「朝日新聞」の「声」の欄に載った一会社員の投書から
"「天声人語」氏の言うようにウォーナー翁の記念碑を建てることに賛成する。私は終戦記念行事と並行して、遺徳顕彰会の呼びかけを、奈良、京都ならびに美術、宗教両界に要請する"
6月29日 京都市長はハーバード大学教授セルゲ・エリセフ(ロシア人日本学者でウォーナーとともに京都を戦火から救うために尽力したと伝えられている)に感謝状を送る。
感謝状には次のように記されていた。 "故ウォーナー博士と共に米国の有識者を動員して京都を守ってくださった貴下のことをロックフェラー氏から聞き、 京都市民を代表してその功績に深じんなる感謝の意を表明するとともに、京都の故文化財を全市民あげて擁護し教授の御志に副うよう努力します"
7月9日 奈良学芸大学(現・奈良教育大学)では平岡東大寺館長が導師となり、東大寺・薬師寺からも僧侶が出席し、県知事、市長ら200名で追悼式を行う。
7月9日 鎌倉の円覚寺では多数の著名人が出席し、追悼法要が行われた。
この発起人は吉田茂(前首相)、岡部長景(元文相、国立近代美術館館長)、高橋誠一郎(元文相)、畠山一清(元貴族院議員)、細川護立(文部省文化財保護委員)、横山大観、矢代幸雄など。
(戦後ウォーナーが来日をしたとき、夫妻で吉田首相から箱根の別荘に招かれている、知己の中)
日本政府はウォーナー氏に勲二等瑞宝章を授与している。
ウォーナー氏の記念碑は6つある
1963年6月9日 法隆寺 文化財保護委員の細川護立(元首相細川護煕の祖父)、梅原末治京大教授、黒田源治奈良国立博物館館長らが建立の中心となる。
1959年 桜井公園(のちに安倍文殊院に移転) 法隆寺と同じものを、参拝して感激した日雇い労働者の中川伊太郎氏が建立のため、汗水をたらして働いて得た10万円により完成。公園の基礎工事に仲間30人が奉仕をした。
1970年 霊山歴史館(京都市) 岡倉天心と同門の平櫛田中が制作したウォーナーの胸像に碑文を添えたもの。
財団法人・日本文化財団が建立。この時の名誉会長は松下幸之助、理事長は京都新聞社常務取締役白石英司。
幕末の志士の資料を展示するところになぜあるのか、いきさつは館員も知らないという。
1970年 茨城大学五浦美術研究所 ここは戦前、ウォーナーが滞在していた場所だという。
建立者はウォーナー博士功績顕彰会。日立製作所からの提案で、茨城大学や県内各方面からの寄付によるものだという。細川護立や矢代幸雄が碑文に関わる。
1981年 福島県勝常寺の境内 会津史談会会長宮崎長八らの発起。白虎隊記念館理事長早川喜代治が中心となる。なぜか、土井晩翠の碑と表裏の関係となる碑。
1987年 JR鎌倉駅前 鎌倉市内の政財界人、文化人、市民らの寄付による。
「文化は戦争に優先する」という文も刻まれているという。(人間の命は?と思うが・・・)
1957年の「芸術新潮」、「文化財は日本爆撃からいかにして護られたか」では以下のように書かた。
(1)「戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委員会」、いわゆるロバーツ委員会の目的は、戦争により災害を受けてはならない貴重な文化財を保護することにあった。
(2)ロバーツ委員会の委員であったウォーナー博士は日本の文化財リスト(「ウォーナーリスト」)を政府に提出し、歴史的古都を空爆から除外することに成功した。
一方、ウォーナーは恩人説を一貫否定している。
「それはただ噂だけであって、政府が(マッカーサー)司令官と密接な協議をして行った政策である」(京都新聞)
<吉田守男氏の調査でわかったロバーツ委員会の真実>
アメリカ政府に提出した活動の報告書からこの委員会の目的は、以下のとおり。
1、戦争中の連合国軍占領地域での文化財の保護
2、戦闘終了後は略奪された文化財の返還と弁償が目的となる
3、返還を実現するために、略奪された文化財のリストを作る
また、物品での弁償を実現するために、等価値の文化財リストをつくる
そして、そのほとんどがヨーロッパ中心のリストだった。
日本の文化財リスト「ウォーナーリスト」も存在しており、京都、奈良に限らず、全国の文化財が記載されている。
そして、そのリストの目的は主に【略奪された文化財の返還】にあり、決して戦争政策を超えてまで【文化財を保護するというものではなかった】
「ウォーナーリスト」は戦後、占領軍兵士たちが日本を観光して回るガイドブックとして重宝したというのである。
この著者の調査結果は新聞、雑誌で取り上げられている。
<原爆目標都市>
1943年(昭和18)年5月5日米軍事政策委員会にて、原爆使用に関し、トラック島の港に集結する日本艦隊へ投下するのが最もよいという意見が多かったという。
著者が指摘する注目点は、次の部分。
(1)ヨーロッパ戦線の勝敗が決する前に対日使用を決定している
(2)ドイツより日本のほうが原爆の知識に乏しいという理由が選ばれた理由である
(3)本土ではない
1945年4月から1回目、2回目、3回目・・・と目標選定委員会が開かれる。
目標都市はその都度、条件をそろえて絞り込まれる。
京都、広島、横浜、小倉、新潟
基準は
1、直径3マイルを超える大都市であること
2、爆風による効果的な破壊が可能であること
3、8月まで攻撃されないままの状態であること
人類史上最初の爆弾投下にあたり、できるだけ正確にその威力を測定するため無傷の大都市という条件が必要とされた。
空襲による被害があると、それが原爆の効果なのか、通常の空襲なのかという区別がつかないという理由だった。
さまざまな条件が重なる中、実は、京都こそ最も理想的な目標とされていた。
次の目標である広島は、市街地の広さでそれほど理想的とはいえなかったという。
また、長崎は7月24日に急遽追加されたもので、地形条件が適切ではなかったために猛烈な反対にあった。
そして、照準点はが軍需工場の位置は無視し、人口密集地の中心を狙うことが定められた。
京都の照準点は梅小路機関車庫。
<投下目標の予約>
アメリカの戦略爆撃調査団の報告書は次のように記している。
"原爆の攻撃目標はワシントンからの秘密指令によって他のいかなる形式の攻撃からも一切除外されていて、原爆の使用に対する効果だけを得られるほとんど無傷の地域であった”
つまり、原爆投下目標に選ばれた都市には、ワシントンから爆撃禁止命令が出されていた"
そのため、最初から最後まで目標都市だった京都は大規模空襲が行われなかったのだ。
横浜は投下目標から外れたのちに大規模空襲を受けている。これは本文に載っている資料を見ると、時期がピタリと一致する。
<謎の「8888」>
米軍資料「攻撃データ」にB29の出撃データにある所属部隊「8888」が300回ほど出てくる。
「8888」は伏字で、正体が判明しているものがある。
300回のうちの50回は第509混成群団、つまり、原爆投下専門部隊で、原爆投下練習を50回にわたり実施した。
広島、長崎の原爆投下に出撃したB29もこの「8888」と表示されている。
・・・著者が指摘するこの部分は面白い・・・「8×4」は匂い隠しで、「8888」は所属部隊隠し。
<では、スチムソン恩人説は?>
原爆に関して事前警告をすべきかどうかは意見が分かれたが、この警告案を葬った中心人物の一人がヘンリー・スチムソン陸軍長官だった。
原爆開発と投下の計画はスチムソンの下で行われてきた。
スチムソンはトルーマン大統領を説得し、京都を原爆の対象から外させた人物である。
スチムソンは何故、京都を外したのか?
(1)「京都を投下目標にするのは反対だ。決して承認するつもりはない」(スチムソンのレスリー・グローブズ陸軍少将に対する発言)
(2)「もし(京都)の除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう」(スチムソンの日記/トルーマン大統領との議論において)
(3)「トルーマン大統領の支持を得て、私は目標リストの中から京都市を抹消した。京都は軍事的には重要な重要な目標値ではあったが、日本の旧都で、芸術と文化の聖地であった。われわれはこの町を救うべきことを決めた。わたしは広島と長崎を含む他の4つの目標地を承認した」(スチムソンの回想手記「原子爆弾使用の決断」/1947年2月発表)
(3)の発言では、スチムソンが京都文化の重要性を認識したことが京都が原爆投下から免れることとなったように思える。
スチムソンはトルーマン大統領宛の手紙に次のように書く。
(4)「私が書いた小論(「原子爆弾使用の決断」)は、次の世代を教育する責任をもつあのやかまし屋たち、すなわち教育者と歴史家たちが抱いている懸念に答えることを意図して用意されたものであります」(1947年1月7日付)
(3)の発言が(4)の発言につながるものとみれば、(2)の発言こそが真実の発言と捉えられる・・・
著者の考えによると、
スチムソンが京都を原爆投下対象から外した本当の理由は、あくまでもアメリカの戦後日本支配と対ソ連を考えた政策であり、日本の文化都市を守るためではなかったという。
また、アメリカの軍部は京都の原爆投下にこだわっていたので、最後まで京都は通常の空襲被害にあわなかった。
そして、3個目の原子爆弾が用意されていた可能性も含めれば、その目標地は京都であっただろうという。
<誰がウォーナーが恩人と言ったのか?>
文部省の国宝保存課に所属し、後に東京国立文化財研究所所長となる田中一松は敗戦直後の9月のある日、GHQから呼び出された。
相手はアメリカ人ヘンダーソン(少佐、後に中佐)だった。ヘンダーソンは10年前に円山応挙や渡辺崋山を研究するために来日したときに田中と知り合っている。
その中でウォーナーの恩人説が出たという噂を聞き、矢代幸雄が確認のため、ヘンダーソンと会っている。
このとき、矢代はウォーナーの美談が間違いのない事実だと確認する。
【それは、GHQのお墨付きだった】
H・ヘンダーソンはウォーナーの教え子で、GHQの民間情報教育局(CIE)に着任した日本学者。
戦時中は「ラッカサン・ニュース」の作成をし、天皇の「人間宣言」に関わる。
CIEには教育、宗教、新聞、放送、映画などがあった。
NHKの第一放送は1945年、「真相はこうだ」という番組を放送。
これはCIEが直接製作した番組で、内容は、太平洋戦争で日本軍が行った虐殺行為に話の重点がおかれていたらしい。
何の気なしに観ているアメリカ映画の洪水もGHQが占領政策として始めたものだった。
日本人はあっという間に「鬼畜米英」から「親米」へと変わっていった。
結局、ウォーナー恩人説はGHQの作った日本占領政策だったということ。
2002年、NHKは70年代に放送した番組を再放送している。
「ウォーナー博士が作ったリストによりアジア太平洋戦争中の戦火から免れた日本の文化財が、今、日本人のせいで危機に瀕している」という内容だった。
ウォーナーの話は捏造だったということを各種新聞やNHKも大きく報道しているのにも関わらず!である。
これは今も尚、GHQの占領政策が続いているという一端ではないのかとわたしは思います。
補足として、
<異常なほど多かった浜松の空襲>
浜松は1940年当時、人口17万人の中都市であった。
人口32万人の福岡が1526トン、30万人の川崎が1519トンの爆弾投下量。
また、浜松と同じ人口17万人の岐阜は爆弾投下量が838トンだが、浜松は3036トンと、異常に爆弾の投下量が多かった。
カーティス・ルメイの著作から
"この浜松ほどあわれな都市はほかにない。われわれのB29は(日本の攻撃による)被爆やその他の事情で爆弾を投棄する場合、この浜松上空で搭載爆弾を処分するように命ぜられていたのだ。このため、毎日のべつまくなしに爆雨を降らされ(た)"
関東地方を攻撃するために来襲するB29は御前崎から本土に侵入し、富士山を横に見ながら東上する場合が多く、浜松あたりは出入り口に極めて近い位置にあたった。
建国記念日
建国記念日とは、
wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
記紀神話中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)である。
また、明治憲法は1889年の2月11日に発布された。
建国記念日とはムウラが殺された日です。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050727222524
ヤマタイコク物語を参照してください
http://hanearumono.blog115.fc2.com/blog-entry-251.html
ムウラはイトと子供たちと一緒に、仲良く平和に暮らしていました。
けれども、突然、ジンムたちが制圧にやってきてムウラを殺してしまいました。
それが、建国記念日といわれている日なのです。
そして、歴史は改ざんされてしまい、悪いことは隠されました。
天皇家は未だ続いています。
自分たちに都合の悪いことは全て隠されているのです。
しかし、一部は民間に残っています。
そのことが含めてある話が「蘇民将来」です。
wikiより、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5
蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方を中心に日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
乖急如律令(きゅうきゅうにょりつれい)と牛頭信仰
http://www.ginzado.ne.jp/~ryusei/kamohouwa/back/jm0801.html
牛頭天王は、打ち滅ぼした巨旦の死体を五つに切断した.
五つに分断された巨旦の身体は、五節句に配当されることになる.
そして、蘇民将来のもとを訪ねた牛頭天王は、蘇民将来に夜叉国を与え、自分がのちの世には疫病の神となることを告げる。
もし、疫病に襲われるようなことがあれば、それは八王子をはじめ眷属たちの仕業であるから、その際は、「私は蘇民将来の子孫です」と名乗るようにアドバイスする。そのため、今日でも「私は蘇民将来の子孫です」というお札を家に掲げる風習が残っているのである.
さらに、牛頭天王は巨旦調伏の儀式を蘇民将来に教える。
これが、五節句の真の意味となるわけである。
一月一日に供える紅白の鏡餅は、実は巨旦の骨と肉を表わしているのである。
きらに、三月三日に口にする蓬餅は巨旦の皮膚を、五月五日の菖蒲は巨旦の髭と髪の毛を意味している。
また、七月七日に食べる小麦の素麺は巨旦の筋を指し、九月九日に菊を浮かべていただく酒は巨旦の血を、蹴鞠は巨旦の頭を示している。
そして、的は巨旦の眼、正月に飾る門松は、なんと巨旦の墓標なのである。
これら五節句に執り行なわれる儀式は、すべて巨旦を調伏するための儀式であり、現在私たちが思い描いているような風情を感ずる憤わしではない。
五節句の真意と儀式には、もっとおどろおどろしい意味と儀式が隠されていたのである。
ノアの息子のムウラはヤマトの者に惨殺され、その遺体 はバラバラにされ、生き返らないように封印されたと伝えられています。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050228002505
wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
記紀神話中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)である。
また、明治憲法は1889年の2月11日に発布された。
建国記念日とはムウラが殺された日です。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050727222524
ヤマタイコク物語を参照してください
http://hanearumono.blog115.fc2.com/blog-entry-251.html
ムウラはイトと子供たちと一緒に、仲良く平和に暮らしていました。
けれども、突然、ジンムたちが制圧にやってきてムウラを殺してしまいました。
それが、建国記念日といわれている日なのです。
そして、歴史は改ざんされてしまい、悪いことは隠されました。
天皇家は未だ続いています。
自分たちに都合の悪いことは全て隠されているのです。
しかし、一部は民間に残っています。
そのことが含めてある話が「蘇民将来」です。
wikiより、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5
蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方を中心に日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
乖急如律令(きゅうきゅうにょりつれい)と牛頭信仰
http://www.ginzado.ne.jp/~ryusei/kamohouwa/back/jm0801.html
牛頭天王は、打ち滅ぼした巨旦の死体を五つに切断した.
五つに分断された巨旦の身体は、五節句に配当されることになる.
そして、蘇民将来のもとを訪ねた牛頭天王は、蘇民将来に夜叉国を与え、自分がのちの世には疫病の神となることを告げる。
もし、疫病に襲われるようなことがあれば、それは八王子をはじめ眷属たちの仕業であるから、その際は、「私は蘇民将来の子孫です」と名乗るようにアドバイスする。そのため、今日でも「私は蘇民将来の子孫です」というお札を家に掲げる風習が残っているのである.
さらに、牛頭天王は巨旦調伏の儀式を蘇民将来に教える。
これが、五節句の真の意味となるわけである。
一月一日に供える紅白の鏡餅は、実は巨旦の骨と肉を表わしているのである。
きらに、三月三日に口にする蓬餅は巨旦の皮膚を、五月五日の菖蒲は巨旦の髭と髪の毛を意味している。
また、七月七日に食べる小麦の素麺は巨旦の筋を指し、九月九日に菊を浮かべていただく酒は巨旦の血を、蹴鞠は巨旦の頭を示している。
そして、的は巨旦の眼、正月に飾る門松は、なんと巨旦の墓標なのである。
これら五節句に執り行なわれる儀式は、すべて巨旦を調伏するための儀式であり、現在私たちが思い描いているような風情を感ずる憤わしではない。
五節句の真意と儀式には、もっとおどろおどろしい意味と儀式が隠されていたのである。
ノアの息子のムウラはヤマトの者に惨殺され、その遺体 はバラバラにされ、生き返らないように封印されたと伝えられています。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050228002505


