やさしい歌を歌いたい
高い雲、広いイシ、輝くソラ、そんなところにワタシは行きたい
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2009年2月27日(金)のソラ
兵庫県17時頃
分かりにくいが、北東方向から南東方向へ伸びる一本の太い雲
北東が右→
![k090227[4]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303164821.jpg)
西
![k090227[3]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303164934.jpg)
←南東
![k090227[2]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303165001.jpg)
2月27日 18時23分 震源地 福島県沖 マグニチュード M3.9
2月27日 19時33分 震源地 大阪府南部 マグニチュード M2.7
分かりにくいが、北東方向から南東方向へ伸びる一本の太い雲
北東が右→
![k090227[4]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303164821.jpg)
西
![k090227[3]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303164934.jpg)
←南東
![k090227[2]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303165001.jpg)
2月27日 18時23分 震源地 福島県沖 マグニチュード M3.9
2月27日 19時33分 震源地 大阪府南部 マグニチュード M2.7
岩室稲荷神社
京都府舞鶴市にある岩室稲荷神社に行きました。
小浜との境目に位置し、すぐ近くに青葉山の松尾寺があるので、こちらはあまり知られていないかもしれません。
場所は松尾寺のすぐ側になります。
由緒や伝説の参考は、
丹後の地名資料集さんから
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/iwakuboinarij.html
舞鶴市内の稲荷神社のなかでは最も歴史が古いとされ様々な伝説が伝わる。
かつては東舞鶴の商業者は必ずお参りしたといわれる。裏山の400段ほどの石段には赤い鳥居が立ち並んでいて、登ると岩室があり、岩屋大明神がまつられている。
田辺藩主・牧野家の信仰が薫く、参勤交代の際に守護したといわれる。
丹後若狭の漁業関係者の信仰が篤い。
海軍の信仰も厚かった。
舞鶴の民話より「岩室三太夫」
この吉坂のお稲荷さんは、赤い鳥居か何十となく坂道に並んでおり、岩窪稲荷大明神という。
社の裏には、奥深い洞穴があり、ここに白キツネが住んでいた。
いつごろからか吉坂のある農夫が、この白キツネに食事を与えるようになった。
そして白キツネは毎月一日になると白髪の翁に化けて農夫を訪れ、くわしく吉凶を和らせるようになった。
稲の田植え、刈取り、米の売りどきなどを農夫に救え、農夫がその通りすると、農夫の家はお金がいっぱい入りだした。
それを聞いた近燐の村人たちは、お正月にはかならずお参りするようになり、その年の豊作を祈った。
それは現在も続き、ここにお参りする人は多い。
この白キツネの俗名を「岩窪三太夫」といい、田辺藩主の参勤交代で江戸に行くときは、常に見え隠れしてついていった。
江戸屋敷ではそのころ、よく藩対抗のすもう大会が開かれたが、いつも田辺の三太夫か相手を次々と倒した。この三太夫が実はこの白キツネだといわれている。

鳥居をくぐってすぐ左手の建物に軍人さんたちの写真が飾ってありました。
舞鶴は軍港として栄えた町なので、海軍のかたたちも多くお参りされていたのでしょう。
最近知ったのですが、ここ舞鶴にも戦時中に空襲があり、模擬原爆が落とされたようです。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/65ad25043c2e71220bd649832676d4c8

こちらのほうが本道のようです。

本道の階段は急傾斜で雪が積もっているので、もう一方から上りました。
階段を上るとすぐ、二つの社がありました。
ここはキツネの像があちこちにあります。

鳥居を数えてみると、40本くらいありました。
朽ちて横たわっているものがありましたので、その度に氏子が新しいものを寄付しているようです。
この階段の両脇は崖のようです。
木で覆われているのでわからないのですが、長細い岩場を登って行くようでした。
キツネではなく、イヌの像が2体ありました。
台座部分にはどこからか持ってきたような文が書かれていましたが、台座をつけただけかもしれません。
触ってみたら、石ではなく木製でした。

階段を上り終えると本殿がありました。
雪の重みでなのか、曲がっています。

本殿の左手前の2基の灯篭
本殿の左側に岩室がありました。
岩に穴が開いています。
この岩の裏手に手が入る程度の穴が開いていて、小さな鳥居が置かれています。
穴の深さはわかりません。
岩は形がはっきりしていません。でこぼこしています。
高さは180センチくらい。
幅は3メーターくらい。
そして、岩を割っているように2本のカゴノキが生えていました。
カゴノキ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/lauraceae/kagonoki/kagonoki.htm
カゴノキは生長すると樹皮がまだらにはげてくる。和名は、鹿子の木の意味であり、樹皮がシカの子供のまだら模様のようであることを指している。

青葉山方面のソラ
小浜との境目に位置し、すぐ近くに青葉山の松尾寺があるので、こちらはあまり知られていないかもしれません。
場所は松尾寺のすぐ側になります。
由緒や伝説の参考は、
丹後の地名資料集さんから
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/iwakuboinarij.html
舞鶴市内の稲荷神社のなかでは最も歴史が古いとされ様々な伝説が伝わる。
かつては東舞鶴の商業者は必ずお参りしたといわれる。裏山の400段ほどの石段には赤い鳥居が立ち並んでいて、登ると岩室があり、岩屋大明神がまつられている。
田辺藩主・牧野家の信仰が薫く、参勤交代の際に守護したといわれる。
丹後若狭の漁業関係者の信仰が篤い。
海軍の信仰も厚かった。
舞鶴の民話より「岩室三太夫」
この吉坂のお稲荷さんは、赤い鳥居か何十となく坂道に並んでおり、岩窪稲荷大明神という。
社の裏には、奥深い洞穴があり、ここに白キツネが住んでいた。
いつごろからか吉坂のある農夫が、この白キツネに食事を与えるようになった。
そして白キツネは毎月一日になると白髪の翁に化けて農夫を訪れ、くわしく吉凶を和らせるようになった。
稲の田植え、刈取り、米の売りどきなどを農夫に救え、農夫がその通りすると、農夫の家はお金がいっぱい入りだした。
それを聞いた近燐の村人たちは、お正月にはかならずお参りするようになり、その年の豊作を祈った。
それは現在も続き、ここにお参りする人は多い。
この白キツネの俗名を「岩窪三太夫」といい、田辺藩主の参勤交代で江戸に行くときは、常に見え隠れしてついていった。
江戸屋敷ではそのころ、よく藩対抗のすもう大会が開かれたが、いつも田辺の三太夫か相手を次々と倒した。この三太夫が実はこの白キツネだといわれている。

鳥居をくぐってすぐ左手の建物に軍人さんたちの写真が飾ってありました。
舞鶴は軍港として栄えた町なので、海軍のかたたちも多くお参りされていたのでしょう。
最近知ったのですが、ここ舞鶴にも戦時中に空襲があり、模擬原爆が落とされたようです。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/65ad25043c2e71220bd649832676d4c8

こちらのほうが本道のようです。

本道の階段は急傾斜で雪が積もっているので、もう一方から上りました。
階段を上るとすぐ、二つの社がありました。
ここはキツネの像があちこちにあります。

鳥居を数えてみると、40本くらいありました。
朽ちて横たわっているものがありましたので、その度に氏子が新しいものを寄付しているようです。
この階段の両脇は崖のようです。
木で覆われているのでわからないのですが、長細い岩場を登って行くようでした。
キツネではなく、イヌの像が2体ありました。
台座部分にはどこからか持ってきたような文が書かれていましたが、台座をつけただけかもしれません。
触ってみたら、石ではなく木製でした。

階段を上り終えると本殿がありました。
雪の重みでなのか、曲がっています。

本殿の左手前の2基の灯篭
本殿の左側に岩室がありました。
岩に穴が開いています。
この岩の裏手に手が入る程度の穴が開いていて、小さな鳥居が置かれています。
穴の深さはわかりません。
岩は形がはっきりしていません。でこぼこしています。
高さは180センチくらい。
幅は3メーターくらい。
そして、岩を割っているように2本のカゴノキが生えていました。
カゴノキ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/lauraceae/kagonoki/kagonoki.htm
カゴノキは生長すると樹皮がまだらにはげてくる。和名は、鹿子の木の意味であり、樹皮がシカの子供のまだら模様のようであることを指している。

青葉山方面のソラ
建国記念日
建国記念日とは、
wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
記紀神話中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)である。
また、明治憲法は1889年の2月11日に発布された。
建国記念日とはムウラが殺された日です。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050727222524
ヤマタイコク物語を参照してください
http://hanearumono.blog115.fc2.com/blog-entry-251.html
ムウラはイトと子供たちと一緒に、仲良く平和に暮らしていました。
けれども、突然、ジンムたちが制圧にやってきてムウラを殺してしまいました。
それが、建国記念日といわれている日なのです。
そして、歴史は改ざんされてしまい、悪いことは隠されました。
天皇家は未だ続いています。
自分たちに都合の悪いことは全て隠されているのです。
しかし、一部は民間に残っています。
そのことが含めてある話が「蘇民将来」です。
wikiより、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5
蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方を中心に日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
乖急如律令(きゅうきゅうにょりつれい)と牛頭信仰
http://www.ginzado.ne.jp/~ryusei/kamohouwa/back/jm0801.html
牛頭天王は、打ち滅ぼした巨旦の死体を五つに切断した.
五つに分断された巨旦の身体は、五節句に配当されることになる.
そして、蘇民将来のもとを訪ねた牛頭天王は、蘇民将来に夜叉国を与え、自分がのちの世には疫病の神となることを告げる。
もし、疫病に襲われるようなことがあれば、それは八王子をはじめ眷属たちの仕業であるから、その際は、「私は蘇民将来の子孫です」と名乗るようにアドバイスする。そのため、今日でも「私は蘇民将来の子孫です」というお札を家に掲げる風習が残っているのである.
さらに、牛頭天王は巨旦調伏の儀式を蘇民将来に教える。
これが、五節句の真の意味となるわけである。
一月一日に供える紅白の鏡餅は、実は巨旦の骨と肉を表わしているのである。
きらに、三月三日に口にする蓬餅は巨旦の皮膚を、五月五日の菖蒲は巨旦の髭と髪の毛を意味している。
また、七月七日に食べる小麦の素麺は巨旦の筋を指し、九月九日に菊を浮かべていただく酒は巨旦の血を、蹴鞠は巨旦の頭を示している。
そして、的は巨旦の眼、正月に飾る門松は、なんと巨旦の墓標なのである。
これら五節句に執り行なわれる儀式は、すべて巨旦を調伏するための儀式であり、現在私たちが思い描いているような風情を感ずる憤わしではない。
五節句の真意と儀式には、もっとおどろおどろしい意味と儀式が隠されていたのである。
ノアの息子のムウラはヤマトの者に惨殺され、その遺体 はバラバラにされ、生き返らないように封印されたと伝えられています。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050228002505
wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
記紀神話中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)である。
また、明治憲法は1889年の2月11日に発布された。
建国記念日とはムウラが殺された日です。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050727222524
ヤマタイコク物語を参照してください
http://hanearumono.blog115.fc2.com/blog-entry-251.html
ムウラはイトと子供たちと一緒に、仲良く平和に暮らしていました。
けれども、突然、ジンムたちが制圧にやってきてムウラを殺してしまいました。
それが、建国記念日といわれている日なのです。
そして、歴史は改ざんされてしまい、悪いことは隠されました。
天皇家は未だ続いています。
自分たちに都合の悪いことは全て隠されているのです。
しかし、一部は民間に残っています。
そのことが含めてある話が「蘇民将来」です。
wikiより、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5
蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方を中心に日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
乖急如律令(きゅうきゅうにょりつれい)と牛頭信仰
http://www.ginzado.ne.jp/~ryusei/kamohouwa/back/jm0801.html
牛頭天王は、打ち滅ぼした巨旦の死体を五つに切断した.
五つに分断された巨旦の身体は、五節句に配当されることになる.
そして、蘇民将来のもとを訪ねた牛頭天王は、蘇民将来に夜叉国を与え、自分がのちの世には疫病の神となることを告げる。
もし、疫病に襲われるようなことがあれば、それは八王子をはじめ眷属たちの仕業であるから、その際は、「私は蘇民将来の子孫です」と名乗るようにアドバイスする。そのため、今日でも「私は蘇民将来の子孫です」というお札を家に掲げる風習が残っているのである.
さらに、牛頭天王は巨旦調伏の儀式を蘇民将来に教える。
これが、五節句の真の意味となるわけである。
一月一日に供える紅白の鏡餅は、実は巨旦の骨と肉を表わしているのである。
きらに、三月三日に口にする蓬餅は巨旦の皮膚を、五月五日の菖蒲は巨旦の髭と髪の毛を意味している。
また、七月七日に食べる小麦の素麺は巨旦の筋を指し、九月九日に菊を浮かべていただく酒は巨旦の血を、蹴鞠は巨旦の頭を示している。
そして、的は巨旦の眼、正月に飾る門松は、なんと巨旦の墓標なのである。
これら五節句に執り行なわれる儀式は、すべて巨旦を調伏するための儀式であり、現在私たちが思い描いているような風情を感ずる憤わしではない。
五節句の真意と儀式には、もっとおどろおどろしい意味と儀式が隠されていたのである。
ノアの息子のムウラはヤマトの者に惨殺され、その遺体 はバラバラにされ、生き返らないように封印されたと伝えられています。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050228002505
![k090226[1]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303164555.jpg)
![k090216[2]12e](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090218123246.jpg)
![k090216[6]16w](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090218123314.jpg)
![k090216[8]1640w](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090218123326.jpg)






![k090212[1]16e](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090216173017.jpg)
![k090212[7]16w](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090216173030.jpg)
![k090209[1]12](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090216172801.jpg)
![k090104[4]](http://blog-imgs-41.fc2.com/h/a/n/hanearumono/20090303172417.jpg)


